「柯子彰の前に柯子彰なく、柯子彰の後に柯子彰なし」
日本ラグビーフットボール協会機関誌や台湾の民視、公共テレビなどの報道に基づいて、柯子彰の人生を再現してみたい。
1910年、柯子彰は敬虔(けいけん)なクリスチャンの両親のもと、台北で生まれた。父の仕事の関係で、中国の福州市に移り住み、1923年に京都の旧制同志社中学に進学した。
当時の学生としては身長が高く、体格にも恵まれているほうだった。柯子彰はラグビー部にスカウトされ、日々練習に励んだ。真面目な性格に加え、天性の素質があったのだろう。みるみるうちに上達し、同志社中学在学中、ラグビー部のメンバーとして3年連続日本一に貢献した。
大学生レベルの実力を持つ選手として評価された彼は、中学5年生のとき、同志社大学のラグビー部の一員として、関西地区の大学対抗戦に出場した経験もある。同志社中学を卒業し、東京の早稲田大学商学部に入学した柯子彰は、早稲田大学のラグビー部に入り、花形のポジションであるスリークォーターバックを任された。
大学2年生のとき、初めて結成されたラグビー日本代表のカナダ遠征選手にも選ばれている。カナダ戦は、勝つことは絶対に不可能だと戦いの前は思われたが、全7戦のうち6勝1分けの成績を挙げ、日本国内にラグビー人気が吹き荒れたと言われている。
大学4年では、早稲田大学ラグビー部の主将となり、後の早稲田ラグビー部のお家芸とされる「揺さぶり戦法」を確立した。「揺さぶり戦法」とは、ボールを素早く動かして相手の防御を乱し、その隙に攻撃する戦法だ。足が速く、破壊力もあり、頭脳明晰(めいせき)な柯子彰は、常に的確な指示を出し、ゲームをコントロールしていたという。
「カー、カー、カー」
現役時代、グラウンドに向かう柯子彰に、日本中のラグビーファンがそんな声援を送っていた。甘いマスクの柯子彰は、他のどの日本人選手よりも、常に多くの女性ファンに取り囲まれていたという伝説もある。
1934年に来日した豪州学生選抜とのテストマッチでは、23歳で日本代表のキャプテンを務めた。23歳という年齢は、いまだ歴代日本代表最年少主将という記録だ。
当時のラグビー界で、柯子彰をたたえたこんな言葉が残されている。
「柯子彰の前に柯子彰なく、柯子彰の後に柯子彰なし」
いかに彼が日本のラグビー界で重視されていたか、うかがい知れる。植民地となった台湾の若者が日本代表のキャプテンを務めたことは、台湾では大きな話題となった。


