台湾の味が「鷹流ラーメン」の原点

家族の共通言語は台湾語だった。父親は常日頃から鷹峰さんらに「お前たちは台湾人だから台湾語を忘れるな」と諭していた。だから鷹峰さんの台湾語はネイティブ並みで、一方、北京語はほとんど話せない。中学に上がる際、横浜の中華学校に通うこともできたが、外国人訛りのある日本語は、日本で仕事がしにくいだろう、という父親の配慮から、日本人と同じ地元の中学校に入学し、高校へと進学した。

ダンサー時代の鷹峰涼一さん
ダンサー時代の鷹峰涼一さん

高校以降は波乱の人生を歩んだ。ブレイクダンスに憧れ、本場米国に渡りその腕を磨いた。ダンサーとしての体力に限界を感じたころ、愛田武社長と出会い、ホストとしてスカウトを受けた。愛田武と言えば、日本で有名な老舗のホストクラブ「愛」の創設者として知るひとぞ知るという名前。バブル最盛期に店ではナンバーワンに上り詰めた。1カ月の給料は、立つほどの1万円札の札束をもらっていた。ところが、30歳を迎えて突然ホストを辞め、10年ほど定職に就かず、母の経営するクラブや弟の経営する飲茶店を手伝って過ごしていた。

ホスト時代の鷹峰涼一さん(左)。ホストクラブでナンバーワンになった際の記念の1枚(右)(鷹峰涼一さん提供)
ホスト時代の鷹峰涼一さん(左)。ホストクラブでナンバーワンになった際の記念の1枚(右)(鷹峰涼一さん提供)

ラーメン店の開業でも、当初、有名店では修行せず、自己流で始めた。門外漢の挑戦は、同業者からの嘲笑の的となった。それでも、自分だけの味を求め、台湾の雞肉飯と白切雞からヒントを得た「白鶏麺」を完成させた。

「結局、僕のラーメンは台湾の味が原点なのです」

2000年代初頭の日本のラーメン店の主流は、濃厚魚介豚骨ラーメンが主流で人気だった。あっさり鶏ベースの塩ラーメンは少なく、来客に30分以上説教されたこともある。時代の先端を行きすぎた結果だ。それでも、諦めずに続け、人気店へと成長した。

この白鶏麺を「梓山」で台湾の地に再現したのである。

「台湾人の口に合わないはずがない」

忙しく接客しながらこう言い切る鷹峰さんからは、台湾人としての自信が溢れ出している。一方、台湾料理はおいしいけれども、その味が、50年以上あまり変化がないことを鷹峰さんは残念に思っている。

「伝統を守ることも大切だけれども、人間も料理も進化が必要だ」と鷹峰さんは言う。1年に1軒ずつ、全て違う味の店を台湾に出しながら、日本の本場のラーメンの味を台湾に定着させつつあると自負している。そして、来年は台湾でもっともポピュラーな「牛肉麺」の鷹流版に挑戦するという。それは、台湾料理をさらに進化させることを期待しているからだ。

鶏ラーメンの梓山をオープンしたばかりなのに、頭の中はすでに牛肉のことでいっぱいになっていた。鷹流牛肉麺を完成させた後は、東日本大震災で受けた台湾人への感謝の気持ちを形にするよう、車に乗り、台湾各地を巡りながら、屋台でラーメンを作り、日本の味を台湾各地の人々に届けたいという

鷹峰さんの進化と挑戦は一生続いていくに違いない。

バナー写真=「鷹流ラーメン」店主・鷹峰涼一さん(筆者撮影)