台湾時代の謄本の写しを入手し、恩人の子孫と対面を果たす
2015年4月27日。河内洋輔さん、青野マスミさんきょうだい、僕と友人の小田さん、案内役の湯さんと日本語が堪能で通訳を買ってくれたその夫人の6人を乗せたワゴン車は、高雄から一路旗山へと向かった。1時間ほどの道中は、サトウキビ畑が続き、それがバナナ畑に変わると、そこはもう旗山だ。旗山は台湾バナナの産地として名高い。湾生の2人は70年ぶりの故郷の街並みを感慨深そうに車窓から眺めていた。われわれはまず旗山区役所に向かい、黄伯雄区長(当時)を表敬訪問した。
黃区長は、70年ぶりの “帰郷” を温かく歓迎し、当時の官舎付近の神社や公園の写真を見せてくれた。昼には公務の合間を縫って、隣町の美濃(区)で客家料理をもてなしてくれた。黃区長の歓待には本当に頭が下がる思いだった。
続いて、区役所の隣にある戸籍事務所に湯さんは案内してくれた。一家4人の名前が記載された日本統治時代の戸籍謄本の写しが、手渡されると、2人とも感極まった様子だった。まさか当時の謄本が残っているとは夢にも思わなかったようだ。同行していた友人と僕も胸が熱くなった。湯さんが入念にこうした根回しをしてくれていたのだった。謄本の記載内容から、2人が母親と旗山を離れ、一時期屏東に身を寄せた後、高雄港から日本に引き揚げるに至ったその後の足取りもつかめた。台湾では日本統治時代の1906年以降に戸籍制度が整備され、現在ではマイクロフィルムに保存された当時の戸籍謄本は、全国どこの戸籍事務所からでも検索が可能であり、必要書類を整えて親族が申請すれば、謄本の写しを入手できるようにもなっている。
興奮も冷めやらぬまま、我々は旗山市街を散策しつつ、かつて2人が住んでいた官舎があった場所も訪れた。当時の住所から湯さんが文献をたどって割り出してくれた地点は、ドラッグストアになっていた。救出された後、火の手が上がっていた状況だったことは聞かされていたので、すでに当時の建物は残っていないことは承知していた。二人は湯さんの解説を聞きながら店の前にしばし佇み、70年の時の流れをゆっくりと反すうしているようだった。
サプライズはこれだけでは終わらなかった。湯さんは「チンホウシュウ(陳芳洲)」さんのお孫さんの家まで案内してくれたのだった。その人は陳鋕成さんと言い、旗山の行政区分が高雄県旗山鎮だった時代の元鎮長だった。今は、政界は引退して弁当店を営んでいる。地元の名家だったことで史料が残っていたことも幸いした。2人は陳鋕成さんに深々と頭を下げた。
「あなたのおじい様があの時、私たち家族を助けてくれなかったら、私たちの命はありませんでした。本当にありがとうございました」
陳鋕成さんは淡々とこう答えた。
「その話は祖父から聞いていました。祖父は当たり前のことをしただけです」
陳芳洲さんは当時旗山の消防署長だった。おそらく警察官だった2人の父親とは仕事柄、親交があったものと思われる。兄の洋輔さんによれば、父親は他の同僚たちとは違って、高圧的な態度を取ったり拷問したりといったことは決してしなかったという。ただ嘘だけはつかないようにと被疑者を諭しながら、穏やかに取り調べを行うような人物だったそうだ。また、裁縫が達者だった母親も、日頃から隣近所の繕い物を一手に引き受け、日本人と台湾人の分け隔てなく世話を焼いていたというから、地元の人々からも慕われていたことは間違いなさそうだ。こうしたことが重なり、究極の危機に直面した時に、陳芳洲さんに自分たちは命を救ってもらえたのだろうと洋輔さんは分析する。



