広大な上北投の用地を買収

1928(昭和3)年、庄太郎は「台北館」を8万円で売却。北投地区を世界的な保養地にして地元民の生活を豊かにしたいと考え、上北投一帯の土地を購入し開発に乗り出す。当時の北投には老舗『滝之湯』など何軒か湯治場や旅館があったものの、本格的な純和風のもてなしを提供する施設は皆無だった。

庄太郎は地熱谷近くにあった建物を買収すると、裏手にそびえる七星山と息子・星太郎の名前から1字を取って、旅館は『星乃屋』と名付けた。そして自ら建材を選び宮大工を呼んで純和風旅館に大改築。庭園には内地から取り寄せた松やサツキをふんだんに植え、築山や池を造り錦鯉を大量に放した。館内には男湯、女湯、家族風呂など5カ所の温泉場を設け、趣を凝らした和食を提供した。さらに地熱谷の後方に延びる山道を自ら測量し、自動車道路を自費で開通させ展望台を造った。すると北投市街を一望できると評判を呼び、湯治客ばかりか内外の観光客も足を運ぶようになった。

古いアルバムには、「台北館」の前で庄太郎一家と従業員が仲良く並ぶ写真が残っている。この時からの原住民、漢人、日本人の混成チームが、一丸となって北投でも奮闘したのである。

1930年代後半になると台湾鉄道部に観光課が開設され、海外に向けても観光宣伝に力を入れ始めた。台湾が南方への物資支援の拠点として注目をされるようになったからである。1935(昭和10)年、総督府は台湾始政40周年を記念して台北市で博覧会を開く。展示会場では台湾の景勝地や史跡、温泉などの観光資源と物産が大々的に紹介され、以後、民間の旅行社、旅館、交通各社が政府の施策に協力したおかげで、台湾は内地人憧れのデスティネーション(旅行先)となる。純和風旅館『星乃湯』は総督府の高官やVIPの接待にも使われ、庄太郎のもくろみ通り北投のランドマークとなっていった。

地熱谷裏山の道路を独力で拓き、開通式で先頭を歩く庄太郎。
地熱谷裏山の道路を独力で拓き、開通式で先頭を歩く庄太郎

軍への協力を経て終戦へ

だが、日中戦争の始まりとともに観光業にも陰りが差してくる。現在も上北投に残る元日本軍衛生医院北投分院は1910(明治43)年の開業だが、台湾軍管区部隊第十方面軍の5個師団は、中国南部戦線から送還される傷病兵の保養先としてさらに陸軍保養所の建設を発表。その用地が庄太郎の所有地とかぶっていたため境界線を巡って係争が起きた。周囲の反対にもかかわらず庄太郎は陸軍相手に裁判を起こし、測量地図を根拠に粘り強く戦い、勝訴した。その上で庄太郎は、改めて軍に所有地の提供を申し入れ、筋を通す男としての名を上げた。

戦局が逼迫(ひっぱく)してくると『星乃湯』は陸軍の航空病院第一別館となる。庄太郎は裏手の山に地元民のための老人憩いの家を新たに建て、敷地内に舞台をしつらえて療養中の傷痍軍人を招き、地元民との交流に努力する。

そして迎えた1945(昭和20)年8月15日。日本の敗戦により庄太郎は今まで築き上げたすべてを手放し、内地に引き揚げざるをえなくなった。単身渡台して48年目のことだった。自分の分身とも言うべき『星乃湯』を台湾人従業員に譲って庄太郎夫婦と四男は静岡県富士宮市へ、長男と次男は神戸へ、娘の八重子一家は夫の出身地長崎へと、それぞれの場所で戦後の生活をスタートさせた。

「祖父は引き上げてからも星乃湯のことを心配し、松はその後も育っているだろうか、庭園の鯉は無事に長らえているだろうかと、最期まで気にしていたそうです」(剛衛さん)

庄太郎の無念さや台湾への望郷の念はいかばかりだったろう。1948(昭和23)年5月のある日の早朝、引き揚げの心労などで健康を害した庄太郎は、家族に「皇居の方に体を向かせてくれ」と頼むと、そのまま二度と目を開けなかった。享年72歳だった。