私の前に露出した国家というもの
どうもこの頃わたしは台湾当局の何らかの警戒リストに載ってしまったようである。これは事後に分かった。正確な時期は記憶していないが、おそらく88年か89年頃、独裁者だった蒋経国総統が死去した(1988年1月13日)後、まだ90年代には入っていなかった頃だと思う。もちろんそれまでに長期戒厳令は解除されていた(1987年7月15日)。日本人の知り合いを介して、亜東関係協会(現台湾日本関係協会)駐日代表処の広報担当の責任者という人から会食に招待されたので指定のレストランに出掛けた。何の話があるのかと思っていると、談笑の間にその責任者は近年の台湾政治動向に触れてから、何気ない口調で「だから私はあなたのような国立大学の教授をそんなふうに扱うべきではない、と言ったのですよ」と言った。これでようやくこの会食の意味が分かった。外国人を何らかの警戒リストに載せておいてそれをこのほど解除しましたとはあからさまに言うわけにはいかないから、彼はこういう形でたくみに台湾当局の私に対する扱いの変更の事実を告げたのであった。
ただ、私が台湾に渡航した際に、当局から何かされたということは全く無かったから、何か変更があったとすれば、私にはあずかり知りえないところで作成された監視リストから私がはずされたということだろう。もちろん、それなら私に何も言わないでおくこともできるので、なぜわざわざこういう機会を設けたのか、どこかから出た政治的指示によるものなのか、それとも情勢の変化を見た彼の判断なのか、今でも分からない。
ただ、私が何らかのリストに入っていたのはどうも確からしい。それからまたしばらくたった90年代初めの頃だと思うが、当時私の大学院のゼミに顔を出していた台湾の留学生が、駐日代表処の領事セクションにアルバイトしていた頃私のデータを見たがそこには「印」が付いていたという。
こんな風に、間接的にではあったが、当時の「中華民国」という国家が私の前に、個別私に対して、露出したのであった。私という台湾政治研究者への「注目」に関しては台湾当局の出先機関の政治的警戒も当然に存在したということであろう。
ただ、似たようなことは、日本の政府も行っていた。これも正確な時間は思い出せないのだが、それは、私が初めて霞山会の午餐(ごさん)会の講演を依頼された時のことであった。霞山会というのは外務省OBを会員とする長い歴史を持つ団体で、午餐会の出席者の大部分も元外交官であった。また同会は『東亜』という月刊誌を発行していて、同誌は東アジア各国の動向を観察・分析で定評がある。
その時、霞山会の担当者が講演依頼の電話をかけてきて、私が承諾すると、午餐開始の15分前にまず事務所の方に来てくれという。霞ヶ関の当時の霞山会ビルの事務所に赴くと、事務所の片隅に衝立(ついたて)で仕切ってある応接コーナーに案内された。そこには、すでに黒っぽい背広を着た中年の男性2人が先に来て座っていた。型どおりお茶が運ばれてから名刺交換となったのだが、その名刺を見て顔には出さなかったが少し驚いた。そのセクションまで記憶していないのだが、公安警察の人であった。記憶はもう消えてしまっているが、大した話はしなかったはずである。5分かそこらで2人はそそくさと辞して、わたしは午餐会の会場へと案内された。
その時わたしはこれが「面通し」というやつかも知れないと思った。政治的にセンシティブな地域のことを論じる人間が現れたら、とにかくどんな人間かできる限り直接に会ってチェックを入れておく、それも私個人に何か具体的な「容疑」があったからという訳ではない、外事公安警察の経常業務が淡々とこなされたということだったと、その後自分で勝手に了解したのであった。大げさに言えば、これもまた私という個人の前に日本という国家が露出した5分間であった。
