忘れられた日台近代史
北川直征ら多くの若者が参戦した台湾出兵のきっかけとなったのが、その3年前に起こった「琉球民遭難殺害事件」である。琉球王府へ年貢を納めた帰りの宮古島の船が台風のため現在の屏東県八瑤湾に漂着し、上陸した66人のうち54人がパイワン族に殺害されるという惨劇だった。どちらも台湾恒春半島の「牡丹社」が舞台となったため、この2つを併せて「牡丹社事件」と呼び習わされている。「社」は原住民のコミュニティーを指す言葉だ。
当時、琉球は日本と清の双方に朝貢する「両属」の国で、その帰属を巡って対立が生じつつあった。明治政府は「原住民に対する懲罰、自国民の保護、航行の安全」を大義名分として、事件から3年後に西郷従道率いる大軍が牡丹社を攻めた。パイワン族との戦闘は半月ほどで勝負がつき、日本軍の勝利に終わる。この結果、明治政府は琉球を自国の領土だと内外に宣言し、後の台湾領有を確実なものとした。
「牡丹社事件」は、近代国家として出発した日本にとっても、併合された琉球にとっても、日本の領土になった台湾にとっても、かつての宗主国だった清国にとっても、非常に重要な意味を持つ出来事なのだ。台湾では歴史の授業でこの事件を教えているが、日本ではほとんど取り上げていない。