100年越しの大和解プロジェクト
以前、コラムに書いたように、当時暮らしていた台北で、2005年2月に、琉球民遭難殺害事件に関係したパイワン族の末裔(まつえい)が、先祖の罪を謝罪するために沖縄に行き、被害者遺族と対面して和解するというテレビニュースを偶然見た。被害者と加害者という正反対の立場の人たちが、100年以上の歳月を超えて、先祖の身に起こったことを振り返り、過去を赦(ゆる)し、未来志向の友好関係を誓い合う。そんなことが可能なのか?なぜパイワン族の末裔が百数十年もたった今になって和解を目指すのだろうと、不思議に感じた。
それから4カ月後、双方の和解を試みる愛と平和の旅が実施され、沖縄県と台湾のメディアが大きく報道した。そのニュースを見ながら、歴史が今に生きていることを実感した。
それがきっかけとなり、私は牡丹社事件の執筆の準備を少しずつ始めた。学者や研究者のように、新事実を発掘したいというよりも、日台双方の関係者(加害者である台湾の原住民と被害者である沖縄県民)が、長年続けてきた和解の努力をもっと知りたいと思った。末裔たちに会い、牡丹社事件が彼らの中でどのように受け止められているのかを確かめたかった。
そこで、私は現場の屏東県をはじめ、末裔たちが住む沖縄県宮古島市や那覇市、大分県まで出掛けて行った。また、台湾出兵の拠点となり現在も記念碑が立つ長崎市にも何度か足を運んだ。おのおのの場所に立ち、あのとき起こったことを考えた。ひとつひとつの事実はどんなことに起因しているのか?他の出来事となんらかの関係性はないのか?事実と解釈をまぜこぜにしていないか?山のような資料を前に「なぜ?」の答えを見つけようとする作業は、途方に暮れることもしばしばあった。
幸運なことに、和解イベントの発案者のひとりであり、加害者のやしゃごにあたる故マバリウ・バジロク(中国語名は華阿財)さんを紹介され、屏東県へ行くたびに事件の経緯を詳しく教えてもらった。
漂着民が迷い込んだ村は当時どんな状態だったのか?当初は水や食料や寝場所を提供したのに、なぜ、大量殺害という結末に至ってしまったのか?なぜパイワン族は被害者の首を狩ったのか?
こうした疑問は、日本の公文書館や外務省の外交史料館に足を運んでも分からない。どういう状況で彼らが村に迷い込み、逃走の果てに修羅場を迎え、12人だけが漢人によって救助されたかという点は、生存者たちの生々しい証言として残っているけれど、パイワン族側に立っての説明は当然のことながら記録にない。
バジロクさんは、長年かけて集落の古老から集めた証言やパイワン族の歴史として語り継がれている口伝を日本や中国の史料と突き合わせ、先住民族の視点からこの事件を分析した。そうして、若者たちに自分たちの歴史を教え、私たち日本人には日本語で牡丹社事件を語ってくれた(残念なことにバジロクさんは2018年11月末に旅立たれた)。
