日本での就職を蹴って台湾に向かう
大学に進学した佐藤は教師を目指した。不登校だった経験から、どうしたら生徒にとって面白い授業ができるのだろうかという問題意識を持ち続けていたからだった。大学では一転して授業には真面目に出席し、高校の歴史と公民、中学の社会の教員免許の取得に心血を注いだ。一方、学費と生活費を自ら稼ぐべく、販売員、居酒屋の店員、チラシ配り、ヒーローショーの着ぐるみ要員、家事補助等あらゆるアルバイトに明け暮れた。しかし、大学3年の秋にそれまでの無理がたたって過労で倒れてしまう。
「さすがに疲れ果てました。卒業までの学費も稼ぎ終えたので、冬休みはのんびりと海外旅行にでも出掛けようと思っていたところ、たまたま電車の吊り広告に『台湾・韓国・ハワイ』向けツアーの宣伝を見つけました。その中で具体的なイメージが浮かばなかった土地が台湾でした。ならば台湾に行こうと決めました」。
この時、佐藤はあえて下調べはせず、ガイドブックも持たず、未知との遭遇に心踊らせて台湾に向かった。果たして行く先々で見ず知らずの台湾の人々からの親切に触れながら、台湾を一周した。ある台湾の女性に勧められるがまま、最南端のリゾート地・墾丁の鵝鑾鼻の灯台にも足を運んだ。帰国すると、旅先で出会った一人一人に礼状を送った。すると、鵝鑾鼻行きを勧めてくれた女性からほどなく返信があった。今度は彼女が日本に旅行に来ることとなり、佐藤が案内役を務めた。この女性は、現在の佐藤夫人その人である。
さて、大学4年で佐藤は人生の大きな決断に迫られていた。翌春から大手メーカーでの就職が内定していた。かつてのアルバイト先でトップ・セールスマンだった彼に早々と白羽の矢が立ったのだった。一方、台湾の彼女との交際も始まったばかりだった。もともと目指していた社会科の教職課程の単位も順調に取れていた。
「最終的に台湾で日本語教師になる道を選びました。日本で社会の教員をやろうが、台湾で日本語教師をやろうが、先生になることには変わりないと思ったのです。そして、日本語教師養成講座に通い、480時間の授業を半年でクリアして日本語教師の資格を手にしました」。
2009年に日本の大学を卒業すると、数カ月間のアルバイトで軍資金を貯め、台湾師範大学漢語センターの門をたたいた。大学の授業のみならず、7、8人の台湾人を捉まえて毎日のようにお互いの母語を教え合う「言語交換」も続けた。ここでも「成長の足し算理論」を実践し、誰よりも努力した。中国語の能力はめきめきと向上し、1年3カ月で語学留学を修了すると、そのまま台北駅近くの「補習班」と呼ばれる語学学校で日本語教師兼教務スタッフとして迎えられた。たまたま、そこに通ってきていた出版社の営業担当者に声を掛けられ、2012年からは午前中だけアルバイトとしてその出版社でも掛け持ちで働くこととなった。しかし、二足のわらじを履く生活は長くは続けられなかった。学生時代に過労で倒れた記憶がよぎり、翌年には塾を辞めて、出版社の仕事一本に絞った。
