ある時は演奏家として、ある時はプロデューサーとして台湾の音楽シーンに足跡を残してきたドラマーの戸田泰宏さん。決して、順風満帆だったわけではないが、「情熱貯金」をモットーに七転び八起きで人生を切り拓き、日台双方向の文化交流に奔走する。

戸田泰宏は子どもの頃から足が速かった。小学校では運動会の花形だった。中学では、陸上部とサッカー部を掛け持ちし、50メートルを5.79秒で駆け抜ける俊足で地区大会では負け知らず、誰もがスポーツ選手としての成功を期待した。しかし、中学2年でかかとの靭帯(じんたい)を切断し入院。人生最初の挫折を味わう。

それでも、天は二物を与えてくれていた。両親の音楽好きは戸田少年にも受け継がれていた。元々Boøwyに憧れていた彼は、入院の退屈しのぎにギターを買ってもらい、退院後にはバンドを結成してそのまま音楽に没頭した。高校に入るとすぐに、軽音楽部の先輩からドラマーに抜てきされ、音楽コンテスト「バンド甲子園」の埼玉地区予選に参戦。いきなりベスト・ドラマー賞を受賞する。

「これで勘違いしたのでしょうね。高校を中退し、通信制の高校に入り直し、プロを目指して当時南浦和にあった『ポテトハウス』というライブハウスにアシスタントとして転がり込みました。現場でさまざまなバンドの音楽を聴くことで耳も肥えましたし、多い時には十数ものバンドを掛け持ちし、音楽漬けの毎日でした」。

当時流行していたビジュアル系、ガールズ・バンドからブルース、ロックに至るまで多様なジャンルのバンドをサポートした。その頃の戸田は、英国の伝説のロックバンド、レッド・ツェッペリンのドラマーで、自分の生年に没したジョン・ボーナムの生まれ変わりだと信じて疑わなかった。「会話しながら音楽が進行する」ツェッペリンのCDは今でも毎日聴くほど惚れこんでいる。

地元でドラムを教えたり、音響操作のバイトをしたりして食いつなぎ、バンド活動に明け暮れていた23歳の時に、自らが率いていたバンドにメジャー・デビューのチャンスが訪れた。しかし、メンバーが不祥事を起こして脱退、そのまま解散に追い込まれてしまった。人生2度目の挫折だった。

戸田泰宏氏提供
戸田泰宏氏提供