日清戦争を予期して広島へ進出
賀田兄弟は内外用達会社の社員となったが、1891(明治24)年5月、同社は解散となり、大倉組が業務を引き継いだ。金三郎は、愛媛県の大倉組伊豫(=伊予)松山支店主任として着任、実績を上げ広島支店長も兼務することとなる。日清戦争間近と考えた金三郎が、日本軍の大本営が設置される広島での仕事を望んだ結果である。ここでも金三郎は精力的に動き回り、軍需品の調達という大きな仕事を獲得し、成果を上げた。
1895(明治28)年、日清戦争で台湾を手に入れた日本は、台湾統治に乗り出した。大倉組は4月に金三郎を台湾の市場調査に送り込み、7月には大倉組台湾総支配人として赴任させた。金三郎38歳の時であった 。当時の台湾は、風土病はびこる「瘴癘(しょうれい)の地」であり、日本の統治を認めない抗日ゲリラが闊歩し、阿片中毒患者が多い島であった。台湾統治初期のインフラ整備需要を利用し、1897年には、台湾で大倉喜八郎・山下秀実らと「駅伝社」設立し、郵便や国庫金の輸送、労働者供給などの業務を手掛ける。
翌年には小野田セメントの台湾における一手販売契約を成功させる。これら一連の経営手腕を買われた金三郎は台湾総督府の信任を得ることになる。しかし、やがて「駅伝社」を悲劇が襲った。
武装勢力や先住民族が台湾各地の駅伝社の支店や出張所を襲撃し、現銀強奪や職員の殺害に加え、交通事情による郵便物、金銭物品の遅滞も発生し、その都度、違約金、賠償金が請求されるという予想をはるかに上回る損害が出たのである。
事態を知った大倉喜八郎は駅伝社の解散を決意するが、台湾には駅伝社が必要であると反対する金三郎と対立。金三郎は大倉組を辞め、1899(明治32)年5月、台北書院街1丁目2番戸に「賀田組」を設立して、社長には金三郎自身が、副社長には弟の富次郎が就任した。
