日本から移民を募集

そこで、1906(明治39)年、日本からの移民を募集、約60戸、385人が移住してきた。さらに現地の台湾人やタロコ族を多く雇用して開墾を続けた。人手不足を解消した金三郎は花蓮の新しい産業である製糖業、樟脳製造業の発展に、胸を躍らせていたはずである。しかし、その夢は2カ月後に消えることになる。

呉全城の賀田村移民住居(筆者提供)
呉全城の賀田村移民住居(筆者提供)

当時、賀田組が樟脳の原料となるクスノキの伐採していた地域には、首狩りの風習のあるタロコ族が住んでいた。

賀田組は東台湾開発を始めた当初からこのタロコ族からの襲撃に備え、台湾総督府から大量の武器弾薬を購入し、日本に味方する一部のタロコ族に警備に当たらせていた。ところが、タロコ族内で借地料の分配を巡って抗争が起きた。

危険を感じた花蓮支庁長の大山十郎警部は、賀田組と協議し、威利事務所の閉鎖とクスノキ伐採の中止を決定、その旨を日本人に好意的なタロコ族に通達した。ところが収入を絶たれることになるタロコ族は、これまで友好的だった賀田組に対して逆恨みを抱くようになったのである。

威利社地区からの全面撤退決定直後の7月30日に、日本人のきこり2人がタロコ族の襲撃に遭った。さらに、翌31日には、5人が襲われた。大山警部は直ちに、賀田組威利事務所に残っていた従業員全員の避難を命じ、自らも救出のために威利事務所へと直行した。ところが、8月1日、大山警部、阿部巡査、賀田組職員の山田海三、喜多川貞次郎及び25人が避難を始めたその時、突然、タロコ族の集団が彼らを奇襲、全員を殺害した。これが世にいう「威利事件」である。

金三郎は共存していこうと思っていたタロコ族に裏切られた上に、大切な従業員の命を奪われ、威利事務所を焼き討ちされ、樟脳製造のための設備や大量の在庫までもが強奪された。8月19日には、別の賀田組の日本人きこり10人が再びタロコ族によって殺害されるという事件が発生した。

たった20日ほどの間に、賀田組関係者が40人もタロコ族によって殺害されたのである。怒髪天を衝くところまで来て、金三郎はタロコ族の討伐を、着任して間もない第5代佐久間左馬太総督に嘆願した。威利事件を知った佐久間総督は激怒し、タロコ族掃討に執念を燃やすことになる。

当然のことながら、威利事件は賀田移民村の住民にも大きな衝撃を与えた。固い決意を持たずに日本から逃げるようにして台湾に来ていた移民が多かったこともあり、いつ襲われるかもしれない恐怖に駆られた移民は、逃げ出した。農地は放置され、やがて廃村になった。台湾移民村第1号だった賀田村は、開村してわずか4年後には姿を消すことになったのである。今日、賀田移民村の痕跡を台湾で見つけることはできず、1940(昭和15)年に呉全城の地に造られていた鹽水港製糖株式會社の敷地に建立された「開拓記念碑」を見るのみである。

呉全城の鹽水港製糖工場風景(筆者提供)
呉全城の鹽水港製糖工場風景(筆者提供)

バナー写真=台湾花蓮の林田神社跡地(撮影:野嶋剛)