花蓮に「賀田村」を造成
1898(明治31)年2月26日に第4代台湾総督に就任した児玉源太郎は、台湾東部の開発が遅々として進まないため、後藤新平民政長官から、「難問多けれど、発展すべき可能性は大なり」さらに「この開墾を実現できる人物は、金三郎が最適である」と報告を受けた。金三郎は「駅伝社」の経営を通して総督府に信用があっただけでなく、後藤長官が抱える難題の解決に尽力し、強い信頼関係を築いていた。
1899(明治32)年、金三郎は台湾総督府に台湾東部地区開発計画書を提出、同年11月16日に開拓許可が下りた。この時、金三郎が申請した開発の総面積は、約1万6000ヘクタールという広大な平原であった。総督府は、開墾期間を最長15年の条件を付けて許可した。賀田組は、この広大な東台湾地区の用地を利用して、製糖業以外に、防虫・防腐剤などとして使われる樟脳(しょうのう)の製造、畜産、運輸、移民事業などの多角経営に乗り出すことにした。
1902(明治35)年、賀田組の台湾東部開墾が本格的に始まった。120人の先住民族を雇用し、呉全城の地に初年度は100町歩、翌年は500町歩を開墾し「賀田村」を、さらに隣接する鯉魚尾の地を開墾し「壽村」を造った。
開墾した土地には、サトウキビ、タバコ、タロイモなどが植えられた。さらに、台湾在来種のサトウキビをハワイの品種に切り替えると共に新式の圧搾機を導入して近代化に取り組んだ。ところが、賀田村の運営が順調に進んでいた最中に、金三郎が最も頼りにしていた副社長で実弟の富次郎が急逝した。金三郎の落胆は大きく、打ちひしがれたが、事業に情熱を注いで悲しみを乗り越えるように働いた。
サトウキビの栽培に成功した賀田組は、新式の製糖工場を壽村に作り、一次精製となる粗糖の製造を開始した。この工場は、後に鹽水港製糖株式会社に合併され、戦後は台湾製糖公司へと受け継がれることになる。製糖事業を発展させ、東台湾地区での事業を軌道に乗せるには、どうしても人手を増やす必要があった。

