福田赳夫元首相との友情

高崎中学時代の同級生には、後に首相となる福田赳夫がいた。

本書には、1976年に福田赳夫が第67代内閣総理大臣に就任した際、祖父が祝意を綴った手紙が本の中で披露されていたので、引用したいと思う。

福田学兄の内閣総理大臣就任を祝す

忘れもしない去年の十二月二十四日早朝、当地の新聞を手にすると「日本国会福田を後任首相に指名」という見出しが一面トップに大きく載っているのが目についた。/その時の私の心からの喜びは到底筆舌では表せない。高崎中学の同窓生福田赳夫学兄が政治家として最高の地位である内閣総理大臣になったのだ。これは福田学兄個人の栄誉ばかりでなく、我が高崎中学のこの上もない光栄でもある(中略)学兄が首相に就任された時、本当なら自ら御伺いして祝賀の意を表すべきであるが、何分遠隔の上、日夜雑務に追われて身動きも出来ず遺憾に堪えない。本年一月頃、小生の代わりに長男惠民を遣わして祝賀の意を表すべく伺わした所、御多忙の所を親しく接して頂き非常に有り難く思っている。(後略)

手紙の中に記されている長男の惠民は私の父だ。福田赳夫と祖父の友情は戦後も長く続き、我が家に残っているアルバムには、父と福田赳夫が一緒に写っている写真が収まっている理由を初めて理解するとともに、高崎と顔家のゆかりはかくも複雑に絡み合っていたということを、この本から教えられた。

石坂荘作は遺骨を基隆と群馬に分骨

この本のもう一人の主役は、石坂荘作という人物だ。石坂は1870年に群馬県吾妻郡原町(現・東吾妻町)に生まれた。小学校の教員を経て、日清戦争に従軍し、凱旋後再び教員に復職した。1899年に入り、海外雄飛の夢を抱き、台湾に渡った。その後、基隆に居を構え、「石坂商店」を開業した。タバコや度量衡器を扱う商売人とたがして成功する一方、基隆の有力者として、まちづくりや教育を積極的に推進し、1940年に基隆で他界し、遺骨は基隆と郷里の群馬県原町に分骨された。

1899年に入り、海外雄飛の夢を抱き、台湾に渡った石坂荘作(1940年他界)
1899年に入り、海外雄飛の夢を抱き、台湾に渡った石坂荘作(1940年他界)

石坂荘作の基隆に対する最大の貢献は、図書館の「石坂文庫」と夜学校の「基隆夜学会」、女子の職業学校の「基隆技芸女学校」を創設したことが挙げられる。日本人と台湾人、即ち内地人と外地人を差別することなく平等に教育を受けられるよう推奨し、台湾の人々から“基隆聖人”や“台湾図書館の父”と敬われた人物だ。

曾祖父や祖父は石坂荘作の理念に同意し、資金面の援助だけでなく、終戦後は基隆夜学会を引き継いだ。何度かの名称変更を経て、現在も「私立光隆高級家事商業職業学校」として存続しており、祖父は校長や理事長を務めてきた。

本書を読んだ感想は、私の一族に絡んで日本と基隆がこれだけ深いつながりを持っていたのかという驚きであり、台湾と日本のハーフである私にとってもう一つの故郷である基隆について、何も知らなかったという恥ずかしい気持ちだった。

天然の良港、日本人が造った港湾都市

台湾の北東に位置し、太平洋に面した基隆港は、天然の良港として知られている。日本人が築港計画を立て、大きく発展した港湾都市でもある。1896年、大阪商船の神戸―門司―基隆を結ぶ航路を第一号に、内地間定期航路が始まった。以降、留学、商売、観光などに、多くの人々が基隆を玄関口として、日本と台湾を行き来してきた、いってみれば台湾の「顔」だった。

特に終戦直後、台湾で生まれた日本人は基隆に停泊する引き揚げ船に乗り込み、霞ゆく台湾の地を涙しながら見続けたという話を、湾生(日本統治時代に台湾で生まれた日本人)の口から幾度となく聞いた。日本から引き揚げてきた台湾人は、眼前に迫り来る故郷に涙腺が緩み、基隆港の地を、胸躍る気持ちで踏みしめた。

戦後、台北からの交通の便があまり良くなく、周囲を囲む新北市の成長に押され気味だった基隆は発展が遅れ、すっかりと時が止まった街になっていた。

しかし、2009年、台湾の民進党の次世代リーダーと呼び名の高い林右昌が市長に初当選して以来、基隆駅を含めた基隆港一帯の再開発が行われ、アジア一の旅客船ターミナルとなるべく、変貌を続けている。内台航路の発着地であった岸壁と倉庫のある「基隆港西岸碼頭倉庫」は保存され、往時をしのぶことができる。こうした歴史遺産のリノベーションは台湾の得意とするところである。広島の呉市や香川県の高松市、熊本の八代市、沖縄の宮古市など、基隆市と日本各地の港湾都市との関係が深まっており、新たな交流の姿が見えつつある。

『石坂荘作と顔欽賢——台湾人も日本人も平等に——』の出版を機に、基隆と日本の繋がりが広く知られ、台湾の玄関口に注目が集まるようになれば、きっと石坂荘作や祖父も喜んでくれるに違いない。

バナー写真:福田赳夫元首相(前列中央)との長い付き合いががあった、筆者の祖父・顔欽賢(前列左から3番目)と父・顔惠民(後列左から2番目)