その後の『雲葉』
『雲葉』はその後、1944年2月に8号で発行をやめ、4月に彼らは高等科に進学した。文科生から優先的に兵隊に取られるからと、親たちは子どもを文科クラスに進ませず、この学年は理科クラスが3つに増えるという変則ぶりだった。高等科における彼らの学年には、後に台湾独立運動家となる辜寛敏(こかんびん)氏や、戦後台湾の医学発展に大きな足跡を残した洪祖培(こうそばい)氏や蕭柳青(しょうりゅうせい)氏といった人物もいる。高等科2年に進級する年の3月に、とうとう在学中の彼ら全員に召集令状が届き、米軍の台湾上陸に備え、最前線で警備に当たる任務に就いている。
人格を否定されるような、厳しく理不尽な軍隊生活を経て、1945年10月に復学。「台湾省立台北高級中学」と改名された学校で、引揚船を待ちながら、混乱に満ちた終戦直後の日々を過ごした。
『雲葉』は日本人生徒がほとんど去って、がらんとした学生寮の押し入れに、誰が置いて行ったのか、全号が揃った形で放置されていた。それを沖縄への引揚船を待っていた『雲葉』メンバーの一人、川平朝清氏が発見し、厳しい荷物制限の中、家族に頼み込んで『雲葉』全号を船に乗せて持ち帰った。
その後、これら8冊は、1960年代に米国占領下の沖縄から東京へ運ばれ、集まった級友らでそれぞれ分担して保管することになった。彼らにとっては、青春の思い出が凝縮し、混乱に満ちた時代でも消失せずに残っていた「奇跡」のような8冊だ。
学級雑誌に思いのたけをぶつけた台北高校生。自由な言論が許されなかった時代に、学級雑誌の中だけは本音をつづり、友の考えも理解できた。今のわれわれはずっと恵まれた環境にあるが、どのように友や見知らぬ誰かとつながればいいのか、もう一度考えてみたい。
バナー写真=台北高等学校の同級生らと。1944年1月撮影(川平朝清氏提供)