佐良浜の漁師がカジキ漁を振り返る

張さんが乗っていた船で台湾の漁師と一緒に魚を追っていたのは、ほとんどが佐良浜(さらはま)の漁師たち。佐良浜は南西諸島の中で西部に位置する宮古地方伊良部(いらぶ)島にある港町だ。吉浜金市(よしはま・かないち)さんという50代半ばの船長や、仲松正勝(なかまつ・せいしょう)さんという30代半ばの副船長、張さんとほぼ同世代の久高忍(くだか・しのぶ)さんという船員らがいた。張さんは、これら佐良浜の漁師たちとともに宜蘭県の南方澳で25馬力の焼玉エンジンを搭載した「福源(ふくげん)11号」に乗った。1931年生まれの張さんが20歳だったというから、1950年代初頭である。佐良浜の漁師たちとは翌年も一緒に船に乗り、今度は基隆で「逢盛(ほうせい)1号」に乗った。2隻はいずれもカジキの突き棒漁を行うための「突き棒船」である。船首から「突き台」という台が伸びていて、海を泳ぐカジキにそこから直接モリをたたき込むのだ。張さんは佐良浜の漁師と共に佐良浜に上陸したこともある。

突き棒船、2011年2月24日、台湾・台東県成功鎮の新港漁港(撮影:松田 良孝)

カジキの突き方にも決まりがある。「船長が突いたら、副船長はすぐ突かないといけない。船長が突かないうちに突いたら、怒られますよ」。船長がまずモリを投げ、副船長が間髪入れずに続けるのだ。

張さんの話に耳を傾けながら、私には気になり始めていたことがあった。

もう5年ほど前のことになる。2012年から13年にかけて、私は佐良浜に足を運び、台湾体験のある人から話を聞いたことがあり、その中には元漁師もいたのだ。

故・山口銀朝(やまぐち・ぎんちょう)さんは1928年生まれなので、張さんより3歳年上である。

山口銀朝さん、2013年9月13日、沖縄県宮古島市伊良部の自宅(撮影:松田良孝)

山口さんは佐良浜の尋常高等小学校高等科で学んでいたころ、澎湖島にいた長兄を頼って佐良浜を離れ、新竹で終戦を迎えた。いったんは佐良浜に戻るが、再び台湾に渡り、突き棒船の船員として10年ほど働いた。南方澳で乗り込んでいたのは「福源」という船だ。

福源?

張さんが南方澳で乗り込んでいた船も福源だった。これは同じ船なのか。張さんに電話で尋ねてみると、「福源の親方は林永泉という人で、福源という船を2隻持っていたんです。船長はどちらも沖縄の人で、他の船員も沖縄の人が多かったですよ」という答えが返ってきた。

これだけの手掛かりで、張さんと山口さんの間に接点があるとは言えない。その可能性はあるといったところがせいぜいである。電話の向こうからは「そういう人はいたと思いますよ」という張さんの声が聞こえてきた。自分の記憶に向かってヤマグチ・ギンチョウという人物の所在を確かめるような声だった。