複葬は『日本書紀』にも記録
台湾の対岸である中国南方の福建省(特に客家人地区)や東南アジア各地、遠くはブラジル、ボリビア辺りの少数民族の間にも洗骨の記録があるのは 、古来からの海洋文化の交流の中で広がったものかもしれない。台湾で育ち熊本大学や梅光学院大学で教壇に立った民俗学者の国分直一は、「日本・沖縄はもとより環シナ海では、先史時代から複葬(洗骨や移骨など、遺体に複次的な処置を施してから最終的に「祖先」として遺体を葬る) が主流であった」との見解を示している。
確かに、古代の日本人も複葬をしていた記録は存在する。『日本書紀』によると、崩御した天皇の亡きがらはすぐに地中に埋めることはなく、少なくとも1年半以上は「殯宮」(もがりのみや)に安置された。この「殯(もがり)」とは天皇が崩御した際に今も行われる儀式で、冷凍保存技術もない古代において、殯宮で一定期間を経た遺体が白骨化した状態で再び古墳に埋葬されたと考えられる。
日本の国造りの神話が描かれている『古事記』の中で、死んだ愛妻イザナミノミコトを黄泉(よみ)の国まで探しに行ったイザナギノミコトが、腐乱してうじの湧く変わり果てた妻の姿を見てしまうところにも、こうした死やケガレへの恐れが表されている。「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷(いは・ふゆう)によると、沖縄のある島で見られた風葬の方法は、『日本書紀』に見られる「天稚彦(あめわかひこ)」が死んだ際に親族が毎晩のように集い、酒肴(しゅこう)を携えて歌い踊った箇所を連想させるという。
日本における複葬の名残は、山口県の土井ヶ浜遺跡をはじめ、大分、和歌山、千葉などの沿岸部にある古墳や遺跡に残っている。
黒潮や対馬海流が流れる日本と台湾の間には、多くのつながりを見いだすことができる。あらゆる文化は古来より、日本、台湾とその周辺地域に波のように寄せては返している。人の「死」の取り扱いについても例外ではない。「蘇州に卵を売りに行く」という忌み言葉も、あるいはその一つなのかもしれない。
バナー写真=厳島神社(栖来 ひかり氏撮影)<参考資料>
- 小野高尚『夏山雑談』/国立国会図書館デジタルコレクション
- 島尾ミホ『海辺の生と死』
- 『女性学辞典』/岩波書店/2002年
- 国分直一『日本及びわが南島における葬制上の問題』(1963)
- 国分直一『環シナ海民族文化考』(1976)
- 大本敬久《愛媛的傳承文化》(愛媛の伝承文化)
- 呂赫和『風水』/『南方・南洋/台湾』/黒川創・編(1996)
- 筒井功『葬儀の民俗学』(2010)
- 胎中千鶴『葬儀の植民地社会史/帝国に本と台湾の〈近代〉』(2008)
- 平敷令治『沖縄の祖先祭祀』(1995)
- 蔡文高『洗骨改葬の比較民俗学的研究』(2004)