「寸土といえども、領土を失うことを許さないのが国家であり民族だ」

日本に留学したものの長引く日中戦争に民族の血が沸き立ち、1942年に中国大陸に渡り共産党に入党、人民解放軍の一員としてゲリラ戦や情報戦に従事した。彼のドラマチックな経歴は自伝を読んで頂きたいが、共産党に幻滅して1949年、台湾へ帰還。だが、ほどなく日本への亡命を余儀なくされたのは1951年に蒋介石暗殺未遂事件を起こしたからだ。

その後も、戒厳令下の台湾で非合法とされた独立運動の地下組織に、資金や情報を渡すために台湾への入国を彼は繰り返す。そのとき利用したのが尖閣諸島(台湾では釣魚台)だった。活動家たちは東京からまず那覇経由で与那国島まで飛行機で行き、そこから漁船をチャーターして魚釣島へ上陸。ここで台湾籍の船に乗り換えてひそかに台湾東部の海岸線から入国する。つまり1960年代末から1970年代にかけて尖閣諸島は、台湾の地下組織にとってなくてはならぬ中継点だった。

2011年9月、尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりした事件が起きた。日頃から「尖閣諸島に関しては誰よりも自分が詳しい」と話していた史明さんが、折しも来日していた。すぐにインタビューを申し込み、池袋の『新珍味』を訪ねると、厨房服のまま片手に海図を持って現れ、海図を広げながら台湾と沖縄と尖閣諸島周辺の海流と地理的相互関係を説明した。

「日本統治時代、尖閣諸島は宜蘭郡に属していた。なぜそういう事実も含め中共に抗議しないのか?それに昔から琉球と台湾の漁民はあうんの呼吸でこの島を利用してカツオ漁などやっていたんですよ。沖縄返還後だってしばらくは変わりませんでした」。

史明さんは日本政府(注:当時の民主党政権)の対応が歯がゆくてならない様子だ。かつて、尖閣諸島を拠点にして台湾へ潜入し、与那国島に電波塔を建てて台湾へ自由放送を中継する計画もあったという。いつものことながら客のことなど気にも留めず、地下組織だ、革命だ、ゲリラ活動だと大声で話すから、事情を知らぬ酔客や若いカップルがびっくり顔で振り返る。

スリリングな体験談が一段落すると、最後にこう憂えた。

「尖閣問題は先に兵隊を上陸させたほうが勝ち。国会の手続きをしないと自衛隊を出動できないと日本政府は言うだろうが、それははき違えた民主主義だ。日本の外交は実にだらしない。寸土と言えども失うことを許さないのが国家であり民族だ。領土の保全には民族をあげて戦うのが筋ですよ」

鋭いまなざしで史明さんは海図に乗っているゴマ粒ほどの寸土を鉛筆の先で指した。この言葉に、メモする手が止まったことを思い出す。