志村けんさんは台湾人の共同記憶

どうして志村さんが台湾でそこまで愛されたのか、それには、台湾ならではという理由があった。

志村さんのお笑い番組が台湾に紹介されたのは1980年代後半だった。台湾では当時戒厳令が敷かれており(1987年に解除)、日本語の番組も放送が禁止されていた。しかし、非合法のビデオ店などで日本の作品が出回っており、志村さんの番組は一番人気だったという。さらに1992年になると、日本のテレビ番組が解禁された。ちょうど日本のバラエティ全盛期であったため、志村さんの存在は台湾社会で一気に幅広く認知されるようになった。

日本カルチャーの愛好家を指す「哈日族」という言葉の生みの親で、エッセイストの哈日杏子さんは、「台湾にケーブルテレビがない時代、ビデオで彼のお笑いをみんなで楽しんでいました。多くの台湾人にとって、志村さんはとても重要な共同記憶なのです」と語る。

志村さんをきっかけに、日本のカルチャーに興味を持って、哈日族になっていった人がその時代は非常に多かった。

哈日杏子さんは「彼はいつも表情が豊かで、元気はつらつ。際どい内容の笑いも含んでいるのだけれど、憎めないキャラクターで許してしまう感じでした」と振り返る。

特に、日本文化の開放時期に制作された番組「志村けんのだいじょうぶだぁ」(1987年―1993年)は、台湾では「志村大爆笑」のタイトルで放送されて、大人気になった。名物コーナーの「怪叔叔」(変なおじさん)が、台湾では志村さんの愛称として定着した。

台湾のテレビのお笑い芸人も、志村けんさんのコントを真似ながら、芸を磨いていった。戒厳令下でお堅い笑いしかできなかった台湾の芸能界は、志村さんの自由奔放な笑いに刺激を受けた。志村さんを尊敬しているという芸人たちからも、その死を悲しむコメントが続々とSNS上で語られた。

知り合いの台湾人に「志村けんさんはどんなイメージか」と質問したら「台湾でいう猪哥亮のような存在」と言う人もいた。猪哥亮(ジュー・ガーリャン)は、台湾で一番人気のコメディアンで、奇抜な髪型や型破りな服装、ギリギリの際どいユーモアで人気を博した人物だった。志村けんさんも、それまでは仲良し家族的なイメージであったドリフターズに後から加わり、やんちゃな末っ子として、際どい笑いで仲間を困らせながら笑わせる役割を演じていたという点で、この2人は確かに共通点がある。

少し違うのは、猪哥亮は映画俳優としても大活躍していたが、志村けんさんは「自分はコメディアンだから」という信念のもと、多くの映画出演を断り続けていた。しかし、1999年に高倉健さんが主演した「鉄道員(ぽっぽや)」では、志村さんは、臨時雇いの炭坑夫の役柄を演じ、短いシーンだったが、演技力は圧倒的に光っていたことが私の印象にも強く残っている。