米国留学中、和太鼓と出合う
高校時代は再びバスケットボール部に所属し、部活漬けの日々だったが、部活を引退した高校3年の夏休みに転機が訪れる。海外留学仲介会社の説明会に参加した新之助は、一気に米国留学へと気持ちが傾いたのだ。
「ジブリアニメが好きだった影響から、環境学に関心がありました。この分野は日本より米国の方が進んでいる印象だったので、留学を決意しました。英語は苦手でしたが、行けばなんとかなるだろうとの軽い気持ちでした」
新之助は2002年6月に単身米国に渡った。語学学校で1年間英語の研鑽(けんさん)を積んでから、翌2003年にオクラホマ州立大学に進学し、水資源学を専攻することとなった。オクラホマではゆったりと時間が流れた。人々も優しかった。8歳年上の空手の達人の日本人留学生は、兄のように彼を支えてくれた。米国での生活を通じ、寛容さや価値観の多様性の大切さも学んだ。
米国での生活も5年目を迎えた2006年のある日のことだった。マレーシア出身の留学生から、オクラホマ日本人会の催しで、マレーシア華人に伝わる「二十四節令鼓」の演奏が決まったので、一緒に出演しないかとの誘いを受けた。太鼓との縁はここでつながった。
翌年からは、この時に出会った仲間たちと共に、和太鼓の演奏や作曲も手掛けるようになった。これをきっかけに、米国の他州の和太鼓グループとのネットワークも一気に広がった。
しかし、2008年6月に大学を中退してしまい、新之助は太鼓からは遠ざかることになる。日本に帰国した彼は東京で暮らし始めた。将来の目標が定まらないまま、イベントの裏方や居酒屋でのアルバイトで糊口をしのぐ日々を2年ほど過ごした。新之助は精神的に追い詰められていた。それで、とことん悩み抜いた末、一つの考えがひらめいた。
「それまでは『自分は何がしたいのか?』で苦悩していました。が、ある時、『自分は何ができるのか?』と発想を転換してみたのです。すると、脳裏にふと浮かんだのが『太鼓』だったのです」
太鼓を仕事にすれば、きっと続けられるはず。その思いが新之助を突き動かした。早速、「太鼓」と「仕事」をキーワードにネット検索すると、京都に本社があり、全国で太鼓教室を展開する「太鼓センター」がヒットした。すかさず電話を入れ、面接をしてもらえることになった。
こうして彼は同センターが運営する「TAIKO-LAB」青山教室のアルバイトとして採用された。2010年のことだった。太鼓教室の会員や体験レッスンの顧客対応とフォローアップ、書類整理などが主な業務だったが、非番や休憩時間には、初級クラスでの無料レッスンの受講や空きスタジオでの練習も自由にさせてもらえた。
