台湾人のため、自らを犠牲に
大隊長であった廣枝は、隊の退却を指揮したが、イントラムロス地区に到着すると、銃はすべて海軍防衛隊に回収され、引き換えに「棒地雷」と「円錐弾」が渡された。米軍に反撃するため、海軍防衛隊が人間爆弾と化した特攻隊による「玉砕戦」を仕掛けようとしていることは明らかだった。
「棒地雷」は1メートルほどの竹やりに地雷を結び付けたもの、「円錐弾」は2メートルほどの木の棒に結びつけられた直径約20センチの円錐形の爆弾であった。兵士は棒地雷や円錐弾を持つよう命じられ、また将校は軍刀を手にして、夜の闇に乗じて米軍の戦車を襲撃したが、当然、そんな肉弾攻撃で生還する者などいなかった。
廣枝は上官から玉砕命令を受けたが、部下に「一緒に死ね」と命じることはなかった。
2月17日、米軍はイントラムロス要塞周辺に激しい砲撃を加えた後、日本語で降伏を呼び掛けた。要塞陥落前日の2月23日正午、廣枝は巡査隊の台湾人幹部数名に最後の言葉を残し、そのうちの一人に自分の軍刀を渡した後、単身防空壕に入り、拳銃で自害した。
廣枝の最後の言葉は、「お前達は台湾から来た者だ。家には妻子父母兄弟が待っているだろう。連れて帰れないのが残念だが、お前達だけでも、なにがあっても生き抜かなければならない。俺は日本人だから責任はこの隊長が持つ」というものだった。廣枝は、自らの命と引き換えに、「降伏して命を守る方法もある。何があっても生き残らなければならない」と暗に示していたのだ。
廣枝が自害した数時間後、絶望と悲しみに包まれた隊員たちの耳に、城壁の外から台湾語で降伏を促す声が聞こえてきた。彼らはそれに従い、「俺は台湾人だ」と叫びながら、米軍に降伏の手を挙げた。8日後の1945年3月3日、3年間にわたる日本のフィリピン占領は正式に終わりを告げた。
1946年、約1年間の捕虜生活を終えた台湾人兵士たちは、敗戦国日本が撤退した台湾に続々と帰って行った。1949年には蒋介石政権が台湾に撤退し、新たな台湾の支配者となった。日本人として戦った台湾の兵士は、「敵側」だった新政府を迎えるために、短期間で自らのアイデンティティーを切り替えなければならなかった。
