先住民族の生活記録が写真家への転機に
熊谷が初めてカメラを手にしたのは中学3年の春。部活での所属は柔道部だったが、仲の良かった剣道部顧問の教師の勧めで買ったニコンのF301が、彼の最初の「相棒」だった。高校には進学せず、予備校に通いながら15歳で大学入学資格検定(大検)に合格。この話題は新聞やテレビ、雑誌でも多数取り上げられ、地元の群馬では一躍時の人となる。英語は苦手だったが、小さい頃から漢字には興味があった熊谷は、予備校時代の講師が「これからの時代は社会学か人類学」と述べた言葉が耳に残っていたことなどが伏線となって、1991年に台湾師範大学に語学留学。その翌年、台湾大学に進学すると人類学を専攻した。なぜ台湾だったのか。
実は熊谷の母や祖母は、第二次世界大戦前、台北市の六張犁に住んでいた。祖母は台北の建成小学校で教えていたが、のちに自宅と同じ建物の1階にあった育児院の子供たちと寝起きを共にするようになった。その中の一人に、今も中山北路に店を構える「林田桶(おけ)店」の店主、林相林がいた。店を継がせるために日本人の家庭を体験させておきたいという親の方針から、林はこの育児院に預けられていた。おのずと熊谷の母親とも幼なじみとなった。それから四十数年の時を経て、語学留学で台湾に渡った熊谷の身元保証人となってくれたのが、林だった。台湾師範大学での中国語習得は、日々の自分の進歩に手応えを感じ楽しかったと振り返るが、台湾大学での授業は苦痛だったと笑う。
「人類学科はテキストが英語ばかりで、まさか台湾に来てまで英語で四苦八苦するとは思ってもみませんでした。忙しくて趣味の写真までなかなか手が回りませんでしたが、それでも籍だけは写真サークルに置いていました」
大学3年の時にフィールドワークに入った花蓮の太魯閣で、台湾先住民族のタロコ族(当時はタイヤル族の支族に分類)の集落に2週間近く滞在し、彼らの生活を記録としてカメラに収めた。タロコ族の集落では、お年寄りがきれいな日本語を話すのを耳にして、熊谷は台湾の歴史に関心を持ち始める。
「おじいさん、おばあさんの話す日本語は『1945年』で止まっていたのです。こちらの背筋が思わずピンと伸びるような日本語でした。美空ひばりのカセットテープを擦り切れるまで聴き、日曜日の昼には、沖縄から傍受した電波でNHKラジオの『のど自慢』を心底楽しむ姿にも衝撃を受けました」
この頃、熊谷は写真家を職業にしようと決意する。96年に台湾大学を卒業すると、翌年から東京の赤坂スタジオでカメラマンとしての修行を2年間みっちりと積んだ。99年6月からはフリーのアシスタントとなり、その年の暮れには、ほぼ3年ぶりに台湾に舞い戻った。21世紀は台湾で迎えようと初めから心に決めていたのだ。