世界トップクラスにある台湾の電波天文学の研究と観測装置開発をけん引するのは、実は日本人研究者だ。台湾に拠点を移して19年。ブラックホール観測の世界的プロジェクトの台湾代表を務める松下聡樹氏の足跡をたどる。
小学生からの夢だった天文学者
小学校3年から4年にかけての2年間、松下聡樹は物理学者である父親の仕事の関係でニューヨークで暮らした。松下が通った現地校では、理科は専門の教員が担当し、理科室には小さなプラネタリウムもあった。
「理科の授業は天文の話ばかりで、興味が尽きませんでした。1980年初めのこの時代は、無人惑星探索機ボイジャー1号、2号の活躍がちまたの話題をさらい、スペースシャトル1号機も打ち上げに成功した時期でした。その後、仙台の小学校に転校し、卒業文集には将来の夢は天文学者と書きました」
中学生になったある時、父親から仙台市天文台長の小坂由須人(おさか ゆすと)を紹介され、仙台天文同好会に同級生と参加するようになった。毎週土曜日の例会では、天文台閉館後の午後6時から翌朝の3時頃まで、月面や流星、星雲・星団などの観測に夢中になった。当時地球に接近し、一世を風靡(ふうび)したハレー彗星(すいせい)にも心を奪われた。時には天文台のプラネタリウムの床で寝袋にもぐって寝ることもあった。天文愛好家の大人たちに混じって、星に関する知識や望遠鏡操作の技術をここでじっくりと学んだ。
「ところが、理系以外の事にはあまり興味が湧かず、国語を筆頭に文系のセンター試験の必修科目は軒並み苦手でした。しかし、全ては天文学者になるためと一念発起し、大学受験に臨みました」
1年浪人して東北大学理学部天文学科に進学すると、電波天文学が専門の石附澄夫(いしづき すみお)助手(当時)に師事した。修士課程も東北大学大学院に進んだが、石附が長野県野辺山の国立天文台に異動となったのを機に、松下も野辺山に居を移した。
博士課程は総合研究大学院大学に所属し、そのまま野辺山に留まった。そこでは系外銀河(銀河系の外にある銀河)などを観測するとともに、電波干渉計(電波望遠鏡の一種。小型の電波望遠鏡を複数組み合わせて、単一では実現不可能な巨大な電波望遠鏡と等価な解像力を得る装置)の仕組み、実際の観測やトラブルシュートの知識や技術を徹底的に学んだ。研究だけではなく、観測装置にもめっぽう強くなった。
2000年から03年のポストドクター(大学院博士後期課程の修了後に就く任期付きの研究職ポジション)時代は、ハーバード・スミソニアン天文物理学センターに籍を置き、ハワイ島のマウナケア山に世界初のサブミリ波(1ミリ以下の波長)電波干渉計であるSMA(Submillimeter Array)の建設に関わった。SMAは口径6メートルの電波望遠鏡を8台つなげて一つの電波干渉計として観測する。
完成した装置を科学観測が可能な状態に仕立てるのが、専門研究と観測装置の双方に明るい松下の仕事だった。実はSMAの電波望遠鏡8台のうち2台は台湾製だった。松下と台湾との縁は意外にもハワイでつながった。
台湾からのオファーでチャンスをつかむ
台湾の電波天文学研究は、もともと世界からはかなり水をあけられていた。しかし、1990年代に中央研究院がSMAプロジェクトへの参加を表明すると、台湾のメーカーにSMAで使われる電波望遠鏡を発注したのだった。この時は米国側の設計図通りに作製するだけだったが、これで台湾はこの分野の世界最先端の技術を手に入れた。
一方、台湾では電波天文学分野の研究者が圧倒的に不足していた。SMAの立ち上げでの活躍が目覚しかった松下に白羽の矢が立ったのは、台湾側の差し迫った事情でもあった。
「研究者ポストや科学研究予算が頭打ちの日本よりも、この分野では伸び盛りで研究環境も整っている台湾からのオファーは、自分にとっては願ってもないチャンスと感じました。SMAの観測データの解析も、台湾の研究所であれば滞りなく行えます。台湾は同じアジアにあり、暮らしやすいことも魅力でした」
こうして、2003年から松下は台湾の国立総合研究機構である中央研究院天文及天文物理研究所のポストドクターとして迎えられた。ハーバード・スミソニアン天文物理学センターの指導教官だったポール・ホーも、時を同じくして同研究所所長に就任した。海を隔てた台北の研究所で、かつての上司と再会した松下は目を丸くした。台湾がいかにこの分野の人材確保に力を入れていたかが分かるだろう。