日本の現代文学で多くの作品が映画化され、外国語に翻訳されている作家の一人、中村文則。16年前のデビュー作『銃』が映画化されたのを機に、原作のフランス語版翻訳者であるミリアン・ダルトア=赤穂と語り合ってもらった。
芥川賞作家・中村文則は2002年のデビュー以来、コンスタントに小説を発表し続け、海外でも注目を集めている。そのデビュー作『銃』が、奥山和由プロデュース、武正晴監督によって映画化された。拳銃を拾った若い男の内面をモノローグで綴るという極めて文学的な作品だが、その映像化を作者自身はどう見るのか。また、『銃』を含む中村の小説をフランス語に訳してきた翻訳者は、言語や文化の違いを越えて響く作品世界をどう捉えるのか。
小説の人物に顔はあるか
中村 映画をご覧になってどうでしたか?
ダルトア びっくりしました。中村さんが書いたものが自分の中で一つの形になっていたので、それが別の形になったのを見るのは、ちょっとした驚きでした。
中村 僕も、書いたのは自分だし、脚本もチェックしたんですけど、見てびっくりしました。書いたことを忘れて引き込まれるような、そんな感じで新鮮に見ることができました。実は一つだけシーンを書き加えているんですよ。最後のほうで、ヨシカワユウコ(広瀬アリス)がトオル(村上虹郎)と大学ですれ違って「あなたは問題を抱えている」と言うシーンがあって、そこだけは映画用に書き足したんです。いろんな人たちが結果的にとてもよかったと言ってくれて。
ダルトア やっぱり小説と映像では表現の仕方が違うということなんですかね?
中村 原作ではあのままでいいんですけど、映画の場合、1回フワッと上げないと一本調子になるおそれがあると思って書き足してみたんです。判断は監督におまかせしましたが、監督もあったほうがいいと。演じた村上さんと広瀬さんも、あのシーンが核になっていると感じて緊張したと言っていました。
ダルトア 中村さんが書いているとき、登場人物のイメージは当然あると思うんですけど、映画を見てどう感じました?
中村 すごくピッタリだと思いました。小説を書いているときは映像を一切考えずに書いているので、映画化された自分の作品を見るのはいつも新鮮です。自分の予測の範囲内の映像では面白くないですけど、今回の『銃』も意外な面があった。主人公は、表面で人にしゃべっていることと、内面で考えていることが違うというキャラクターなんですが、内面の声のナレーションと口の動きをずらすとか、面白いアイディアがありました。白黒でここまで映像の力が出せるのかというのも驚きました。
ダルトア 原作のどんなところがモノクロで撮られたことにつながったと思いますか?
中村 もしかしたら文体の雰囲気かもしれないですね。内省的な主人公の語りでずっと進む小説なので。白黒のアイディアは、まずカメラマンから監督へ、監督からプロデューサーへ、プロデューサーから僕へと伝えられたのですが、全員が「それだ!」となって。何かが生まれる時ってこうですよね。ところで、翻訳するときはどうなんですか?登場人物については、日本人だと思いながら訳すわけですよね?
ダルトア そうでもないんですよ。『銃』の場合では、声への意識はしっかりあったんですけど、顔については特に自分の中にはイメージがなかったです。
中村 僕もないんです。内面描写から読者に顔を想像してもらえればいいと思っています。
ダルトア 他の作家の作品を訳すときには、日本的な背景を意識せざるを得ないこともありますが、中村さんの作品については、多くの場合それがまったくない。どこか特定の国であることを意識しないで読めるんです。それは、たとえ人名や地名といった固有名詞が出てきても言えることです。どこの誰にでもあり得るような設定が描かれているので、主人公の行動や考えに感情移入しやすいんですね。中村さんの扱う主題は、人間存在の奥深いところに触れているから、文化的背景の違いとかエキゾチシズムとかを超えているんだと思います。
中村 ドストエフスキーだって、100年以上も前のロシアの話ですけど、身近に感じることができます。文学とはそういうものだと思うんですよね。



