挫折を味わうが良縁にも恵まれる

自暴自棄となりかけた戸田は、中学の時に家族旅行で訪れた台湾へと一人旅に出た。南部の風土が合って、しばらく高雄に滞在した。高雄文化センターの屋外では、週一回、夜9時からギターサークルの練習があった。戸田も彼らの演奏に合わせ、ドラムスティックでパットをたたき、リズムを取っていた。

「それを見ていたんでしょうね。ウィスキーの水割りを水筒に入れてチビチビと飲んでいた怪しい風情のおじさんから、明日、会社に来るようにと言われたのです」。

灰姑娘音楽製作有限公司(シンデレラ・ミュージック・スタジオ)社長の呉坤龍だった。2004年、戸田が24歳の時のことだった。台湾での音楽家としての生活は、こうして突然に始まった。

戸田泰宏氏提供
戸田泰宏氏提供

台湾では運も味方した。相川七瀬、X JapanギタリストのPATA等、日本のアーティストの台湾公演のコーディネートを任され、ドラマーとして演奏に加わることもあった。2006年に楊培安の歌った台湾ビールのCMソング「我相信」が大ヒットすると、その翌年の同社CMソングの作曲を戸田が担うこととなり、レコーディングにも参加した。戸田の作品「盡情看我」は楊培安の声に乗り、巷にあふれた。にも関わらず、戸田は失意の底にいた。音楽マネージメントビジネスを一緒にやらないかと持ちかけてきた知人に、上記作品の制作報酬のすべてを持ち逃げされてしまったのだ。人生3度目の挫折だった。

それでも呉社長はよく戸田の面倒を見てくれた。事務所に行けば弁当を食べさせてもらえた。一文無しとなったが、バックバンドのオファーは安定していた。2009年の高雄ワールドゲームズのオープニングセレモニーの舞台にも戸田の姿はあった。この年から2013年までの間、戸田は拠点を一時台北に移した。台湾版スター誕生「星光大道」を通じて世に出た歌手をはじめ、市場の大きい台北での出演オファーが止まらなくなったためだ。梁心頤(ララ・リャン)、岑寧兒(ヨーヨー・シャム)、何韻詩(デニス・ホー)等、台湾のみならず香港のアーティストからも引く手あまただった。梁心頤には「自由霊魂」という作品も提供した。

戸田は再び上昇気流に乗った。私生活でも2010年に台湾先住民族ペナン族の女性と結婚し、翌年には長男も誕生した。2013年には生活の拠点を再び高雄に戻し、自宅兼スタジオを構えた。アイドル歌手の中国ツアーへの参加も決まった。しかし、またしても暗雲が立ち込めた。この年、日本と中国の間で尖閣諸島の領有権を巡る論争が再燃していた。ツアー出発の前日に、同行が突然キャンセルとなった。戸田が日本人だったからだ。生粋の台湾人ギタリストの日京江羽人も、芸名が日本的との理由で取り消された。チャイナリスクを体感した。人生4度目の挫折となった。

戸田泰宏氏提供
戸田泰宏氏提供