『柳しま』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第64回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第32景となる「柳しま」。浮世絵師の大先輩・葛飾北斎が信仰し、吉運を開いたという柳島妙見の周辺を描いた一枚である。

2つの頂きを持つ山の正体は?

現在の墨田区南東部の広域に、古くは「柳島」と呼ばれた一帯があった。広重の時代には、隅田川と中川を東西に結ぶ北十間川(きたじっけんがわ)の南側、南北を流れる横十間川(よこじっけんがわ)の両岸に「柳島」を冠した町や村が点在した。この絵は春の景として、横十間川が北十間川と交わる手前に架かる柳島橋(現・墨田区業平5丁目、江東区亀戸3丁目)周辺を描いている。

中央の建物は柳島橋西詰めにあった料亭「橋本」で、晩春の季語・若鮎(わかあゆ)の料理が評判だった。当時のグルメ本にも載る有名店で、この絵のスポンサーだという説もある。その左側、朱塗りの塀に囲まれるのが、法性寺(ほっしょうじ)内の「柳島妙見堂(みょうけんどう)」で、江戸っ子たちは「妙見さま」と親しんだ。横十間川沿いの少し南東は亀戸になるので、梅の時期には亀戸梅屋敷、藤の時期には亀戸天満宮とともに訪れるのが、この時代の定番行楽コースだったという。横十間川に浮かぶ屋根舟からは、両国や深川の旦那衆が舟を仕立てて名所を巡った後、橋本で料理と酒を楽しむ情景が思い浮かぶ。

北十間川の向こう岸は、今では東京スカイツリーがそびえたつ押上である。奥の方まで延々と田んぼが広がり、遠くには2つの頂を持つ山を描いている。男体山と女体山の頂上が並ぶ筑波山(茨城県)は、江戸の北東方向にあるので、江戸城の北を描く風景画ではアイコンとして使われることが多い。この絵の山は北西方向なので、多くの研究者が「見えるはずのない方向に筑波山を描いた」と言及している。第35回「隅田川水神の森真崎」と同様の指摘で、筆者自身もそう思ってきた。しかし、作品を現地で撮影したからこそたどりついた異説を紹介したい。

写真は、2019年春の晴天の日に撮影した。鋼板で護岸された横十間川、柳島橋の手前には水管橋が架かり、法性寺はコンクリート造りのモダンな仏堂で、広重の時代と雰囲気は全く違うが、地形はあまり変わっていない。横十間川のフェンス越し、約4.5メートルの高さでカメラを構え、元絵の山と同じ位置に東京スカイツリーを配置した。

作品完成後に、筑波山とどれくらい角度が違うか検証しようと、撮影地点とスカイツリーを結ぶ線を地図上に引いてみた。すると、その延長線上には秩父連山の武甲山があった。気になったので「隅田川水神の森真崎」の山の方角を調べると、やはり武甲山がある。そこで『江戸名所図会』(1834年刊)の「柳島妙見堂」を見てみると、この絵と同じ方角に2つの頂上を持つ山が描かれ、「ちヽふ山」と記してある。

『江戸名所図会』(1834年刊、国会図書館所蔵)の「柳島妙見堂」
『江戸名所図会』(1834年刊、国会図書館所蔵)の「柳島妙見堂」

武甲山は、もともと秩父神社の祭神が宿る神体山で、「秩父嶽」や「妙見山」という別名も持つ。秩父神社は、中世には妙見を信仰する秩父平氏の庇護を受け、明治を迎えるまで「秩父妙見宮」として繁栄した。広重も江戸名所図会を読んでいるはずである。江戸の妙見から秩父の妙見山が見えるのは、江戸の富士塚から駿河の富士山を望む「目黒新富士」の構図にも通じる。今まで、多くの研究者や愛好家が筑波山と思っていた北西の山は、実は武甲山を中心とする秩父連山だったのではないだろうか。

●関連情報

妙見信仰、法性寺、葛飾北斎、東京スカイツリー

妙見とは北極星や北斗七星を神格化した妙見菩薩(ぼさつ)のことで「北辰(ほくしん)妙見」ともいう。北極星は天帝、北斗七星はそれを守る剣に例えられ、北斗七星の1つ「破軍星(はぐんせい)」を背にして戦うと必ず勝つとの伝承もあり、多くの武士が信奉した。平安時代中期に関東を治めた平将門(940年没)も妙見を守り神とし、その子孫とも伝わる秩父平氏も信仰を続けた。

北極星は常に北の方位を示すため、道しるべとして「良い星へ導き吉運を開く」ということから、江戸時代には武士に限らず町人たちからも崇敬を集めた。

柳島妙見堂のある法性寺は日蓮宗の寺で、現在の正式名称は「柳嶋 妙見山 法性寺」。浮世絵とは縁の深い寺で、広重が属する歌川派を最大の一派にした歌川豊国の筆塚があり、寺内のギャラリーには多数の浮世絵を展示している。そして何より、葛飾北斎ゆかりの寺として有名である。北斎は葛飾郡の本所で生まれ、柳島妙見を熱心に信仰したと伝わる。師匠から破門されて生活に窮した際には、21日間にわたり妙見堂へ参詣したそうだ。お参り最終日、落雷に会い失神するが、それから急に絵が売れ始めて運が開けたという逸話がある。さまざまな画号を用いた人気絵師が、その独立直後に名乗った「北斎辰政(ときまさ)」には、妙見への信仰心を思わせる「北辰」の文字が織り込まれている。

広重にとって北斎は、絵師としての大先輩。定火消同心を引退して絵師に専念する前に描いた『東都名所』(1831-32年刊)は、70歳を過ぎた北斎の『富嶽(ふがく)三十六景』が同時期に大ヒットしたせいか、売れ行きが思わしくなかった。しかし、広重はへこたれずに北斎の元へ出向き、画材や表現法について教えを乞うたという。その後、『東海道五十三次』(1833-34年刊)の大ヒットにより、北斎をしのぐ人気絵師となる。そんな広重の「柳しま」は、妙見さまと北斎へのリスペクトから、遠い秩父の妙見山まで描き込んだのではないかと思えるのである。

現在、北十間川は、東京スカイツリーの脇を流れる川としておなじみだ。東京ソラマチ周辺の川沿いは整備され、親水公園のようになっている。法性寺前には十間橋が架かり、そこからスカイツリーを望むと、川面に「逆さスカイツリー」が映るため、写真スポットとして人気。撮影後には法性寺を訪ね、「柳島妙見堂」や「葛飾北斎辰政翁顕彰碑」、ギャラリーなどを眺め、江戸から現代へとつながる時の流れを感じてほしい。

柳島橋の上から撮影した東京スカイツリー。橋を渡ると左手に法性寺の山門がある。この道は北十間川と並行して走る「浅草通り」で、スカイツリー方向に向かうと、駒形橋を抜けて上野駅に至る
柳島橋の上から撮影した東京スカイツリー。橋を渡ると左手に法性寺の山門がある。この道は北十間川と並行して走る「浅草通り」で、スカイツリー方向に向かうと、駒形橋を抜けて上野駅に至る

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら


観光 東京 神社仏閣 浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」 関東 浮世絵 墨田区 東京スカイツリー 河川