『五百羅漢さざゐ堂』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第21回

歌川広重「名所江戸百景」では第70景となる『五百羅漢さざゐ堂(ごひゃくらかんさざえどう)』。江戸時代に栄えた寺院にあった、風変わりなお堂を描いた1枚である。

ご利益があり、眺望も評判だったさざゐ堂

江戸時代の本所五ツ目に「五百羅漢寺」という寺院があった。羅漢像が500体以上祀(まつ)られていたそうだ。

その寺には、当時としては珍しい3層構造の「三匝堂(さんそうどう)」という仏堂が立っていた。サザエのように内部がらせん状になっていたことから、「さざゐ堂(さざえどう)」とも呼ばれていたという。らせん構造の通路の周りに百観音が安置され、それを拝みながら進むことで、100カ所の寺院を巡礼したのと同じご利益があると考えられたそうだ。広重はさざゐ堂と参拝客を、夏の名所として、高所からの目線で描いている。葛飾北斎も見晴台からの景色を富嶽(ふがく)三十六景の1枚としているので、ここからの眺めは江戸の人々に評判だったのだろう。

江戸幕府からの保護があつかった五百羅漢寺は、明治時代に入ると没落し、さざゐ堂も壊されてしまった。その後、移転を重ね、現在は目黒不動尊(瀧泉寺)の近くで「天恩山五百羅漢寺」として存続している。五百羅漢像は約300体が現存し、モダンな鉄筋コンクリート造りの本堂や羅漢堂に安置されている。

撮影したのは、都営新宿線の西大島駅近く、五百羅漢寺の跡地に立つ羅漢寺という寺院だ。明治後期に同地へ移転して来た、宗派も名前も違う寺だったが、昭和に入ってから羅漢寺に改称したそうだ。しかし、2階部分に露台(ろだい)がある建物の造りや屋根の稜線(りょうせん)などから、さざゐ堂の雰囲気が感じられる。向かいにある江東区総合区民センターの2階テラスから、さらに脚立に乗って高い目線で撮影した。

●関連情報

大島(おおじま)

現在の江東区大島辺りは、徳川3代将軍の家光の時代、正保(しょうほう)年間(1644-47)に開発されたという。5代将軍・綱吉の晩年にあたる宝永31703)年、小名木川沿いに深川上大島町と深川下大島町という地名が誕生した。五百羅漢寺は8代将軍の吉宗(1684-1751)から土地を賜るなど、当時の寺地は6000坪を誇ったという。

現在の江東区大島は、南の小名木川、北の竪川、東の旧中川、西の横十間川に囲まれた広い地域となっている。小名木川と旧中川の交わる地点は、江戸時代には物流の要所で、川の関所ともいえる船番所があった。今は中川船番所資料館が近くにあり、水運や地域の歴史に関する展示をしている。下町の雰囲気を残す「大島中の橋商店街(サンロード中の橋)」は、安くてうまい総菜店が多く、夕方にはたくさんの買い物客でにぎわっている。

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」――広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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