『はねだのわたし弁天の社』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第22回

歌川広重「名所江戸百景」では第72景となる『はねだのわたし弁天の社(やしろ)』。日本の玄関口・東京国際空港(羽田空港)辺りに、弁天堂と常夜灯という江戸名所があった。

船頭が遠回りするほど信奉された弁天さま

江戸時代、今の首都高速道路羽田線の多摩川に架かる橋の辺りに、「羽田の渡し」があった。東海道で多摩川を渡る場合は少し上流の「六郷の渡し」が利用されていたので、こちらは川崎大師の参詣に使われたようだ。

現在、羽田の渡しの下流には羽田空港がある。元絵の当時は、要島と呼ばれた漁師が住む島で、弁天(玉川弁財天)と穴守(あなもり)稲荷が祀(まつ)られていたという。海に浮かぶような美しい弁天社と常夜灯は、海上安全や大漁を願う漁師や船頭はもちろん、川崎大師に訪れた江戸っ子からも崇敬が厚かったであろう。羽田の渡しと弁天は少し距離があるので、舟を操る毛深い船頭は川下まで遠回りするサービスで弁天を拝ませていたと伺える。

2次世界大戦後、羽田空港の前身である東京飛行場は連合国軍総司令部(GHQ)に接収された。要島の住人や2つの神社は、48時間以内という厳しい期限で、海老取川の向かい側(多摩川の上流)に立ち退きを迫られた。しかし、穴守稲荷の鳥居を撤去する際に多くのけが人が出たことから、大鳥居だけは元の場所に残されたそうだ。その後、大鳥居の周りは空港駐車場となったが、空港拡張に伴って海老取川に架かる弁天橋付近へ1999年に移設された。

写真は弁天橋辺りから、渡し舟ならぬクルーザー越しに大鳥居方向を写したもの。ロケハンのつもりで出掛けたのだが、空模様が元絵に近く感じ、水平線の高さを合わせてシャッターを切ってみた。当世江戸百景の雰囲気が出せたので、この1枚を作品とした。

●関連情報

東京国際空港(羽田空港)

1931年、羽田空港は日本初の国営民間航空専用空港「東京飛行場」として誕生した。戦後はGHQに接収されたが、1952年に大部分が返還され、名称を現在の東京国際空港へ変更。58年に完全返還されると、国内線・国際線ともに順調に航路を増やしていった。しかし、次第に混雑が激しくなり、78年に開港した新東京国際空港(成田空港)へ国際線が移管された。その後、滑走路の拡張やターミナル新設が進み、2010年に国際線旅客ターミナルの供用が開始されて現在の姿となった。国際ターミナルビルの展望台は、航空機と滑走路に加え、東京湾や富士山も一望できることから、今や旅客以外の人も楽しみに来る観光名所となっている。

一方、羽田空港の駐車場に残された穴守稲荷神社の大鳥居には、「穴守さまのたたり」「たたりの大鳥居」という都市伝説が生まれ、別の意味での名所となった。しかし、空港の利用者や関係者からは「羽田空港の大鳥居」として親しまれ、移設するまで空港のシンボル的な存在であった。

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」――広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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