ニッポンの酒

進化し続ける日本酒(17)— 風土のうま味を表現する武将の酒「七本鎗」(滋賀県)—

文化

酸味、甘味、塩味、苦味に続く第5の味覚として注目される「うま味」は、日本酒の特徴でもある。うま味をテーマに、郷土の地酒を造り続ける老舗蔵の15代目を訪ねた。

4世紀半育ててきた味わいを標榜(ひょうぼう)する酒

滋賀県長浜市には、織田信長が生まれた1534年に創業した蔵元がある。「七本鎗(しちほんやり)」を造る冨田酒造だ。15代目蔵元の冨田泰伸さん(44)は、北近江地方でしか出せない味の酒を造ろうと決心し、香り高く淡麗な大吟醸酒がもてはやされる時代に、味わいを重視した純米酒にこだわり続けている。

味と香りは、日本酒の個性を形作る両輪とされる。1980年代半ばの大吟醸酒(米を高精白した香りの高い高級酒)ブームをきっかけに、技術者たちは華やかな香りが出る酵母(※1)の開発に力を入れるようになった。90年代から長い間、醸造技術を競う鑑評会では、香り偏重の時代が続いていた。しかし、市場にも芳香を放つ酒が多く出回るようになった10年ほど前から、日本酒本来の味わいを見直そうという声が上がるようになってきた。

「米と米麹(こうじ)、水が織りなす、複雑で豊かな味わいが、日本酒の特徴です。日本酒ならではのうま味を楽しんでもらいたいのです。私は、花や果物のような香りのする酒を造ろうという気持ちにはなりません」と冨田さんは言う。

うま味の要となる麹の温度を触って確かめる冨田さん。

「うま味」

アミノ酸から生じる味覚の一つ。1908年に日本の学者が昆布から発見した。2000年には米国の学者が人間の舌に「うま味」を感知する受容体があることを発見し、酸味、甘味、塩味、苦味の4つの味覚と並ぶ「第5の味覚」として注目されるようになった。うま味成分はアミノ酸が主体だが、他にもさまざまな成分が加わって構成されている。日本酒は微生物(麹菌と酵母)の働きを利用し、複雑な工程で造られるため、特にうま味成分が多くなる。和食ブームも追い風となり、「umami」は世界の共通語として広がりつつある。

冨田さんは、うま味を重視するもう一つの理由に、滋賀の地に根付いた昔ながらの地酒である点を挙げる。京都、大阪、滋賀など関西圏の料理は薄味であると言われるが、実はだしをしっかりときかせた料理が多い。まして滋賀県は、強い臭いを放つ発酵食品で、すしのルーツと言われる鮒(ふな)ずしをはじめとする発酵文化を育んだ土地であり、琵琶湖で取れるコイやアユなど川魚を甘辛く炊いた料理も名物だ。このようなこくのある料理には、うま味に拮抗(きっこう)するボディーがあって、しかも後口はすっきりと切れる酒がふさわしい。七本鎗が関西のファンに根強く支持されているのは、地元の酒を応援する気持ちと、普段食べつけている料理になじむ味だからだろう。

街道沿いに建つ趣ある冨田酒造の外観。

七本鎗の由来

七本鎗の味はどのようにして生まれたのだろうか。冨田酒造は、琵琶湖の最北端、北近江地方で古くから栄えた宿場町、木之本町に位置する。冬は冷え込みが厳しい豪雪地帯で、戦国時代の1534年創業した。銘柄の『七本鎗』は、本能寺の変の翌年(1583年)、信長の跡目をめぐって豊臣秀吉(1537-98年)と柴田勝家(1522-83年)が戦った賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、秀吉を勝利に導いた加藤清正ら7人の武将に由来している。初代は庄屋を務め、地域貢献にも尽くした。母屋の建物には幕末に活躍した公家・岩倉具視(1825-83年)が宿泊した記録があり、芸術家であり美食家としても知られた北大路魯山人(きたおおじ・ろさんじん)(1883-1959年)も長らく滞在している。1744年(江戸中期)築の仕込み蔵の入り口には、魯山人によって篆刻(てんこく)された「七本鎗」の扁額(へんがく)が飾られている。酒のラベルは、この篆刻を元にデザインしたものだ。

北大路魯山人が篆刻した扁額。ラベルは篆刻を元にデザインされた。

七本鎗を代表する3本。右から、酵母無添加の年号入り山廃純米「琥刻(ここく)」、酒米「玉栄(たまさかえ)」を使った定番の純米酒「七本鎗」、「滋賀渡船(わたりぶね)」を77%精米した純米酒「渡船」。

1974年、次男として生まれた冨田さんは大学卒業後、社会勉強のために、アルコール飲料事業や医薬品など手広く手掛ける企業に就職した。70年代の半ば、冨田酒造が主に造っていたのは、京都伏見の大手酒蔵に売るノーブランドの酒だった。90年代になると、日本酒の市場は冷え込み、安売りの競争が激化していた。これ以上値引き交渉をされたら、廃業せざるを得ないときが来るかもしれないと、大きな不安を感じていた。

一方、東京では、兵庫県産の酒米「山田錦」を原料に、東北で醸した香り高い大吟醸を喜々として飲む人々を見た。兵庫の山田錦は「酒米の王様」であり、大吟醸酒は技術を駆使して造る最高峰だが、日本全国の酒蔵が同じことをすれば、生き残れないだろう。自分はどんな酒を造ればいいのか悩む中で、いつしか5年がたっていた。母からの求めもあり、跡を継ぐことを決断。その前に、ヒントがつかめるかもしれないと、スコットランドのウイスキー蒸留所やフランスのワイナリーを1カ月半かけて回った。自分のするべきことが見えたのは、夫婦2人で営むブルゴーニュのワイナリーを見学したときだった。「小さなワイナリーでしたが、この土地のブドウでしか出せない味のワインを造るという自信と誇りで、お二人の表情が輝いていました。この時、滋賀県北近江という土地の歴史や文化の大切さに気が付きました」

こうして冨田さんは、2002年に家業を継ぎ、積極的に現場に入って、改革に乗り出した。造る酒をほとんど純米造りに切り変え、を丁寧に造ろうと麹室を改装し、搾った酒はうま味を残すために一切ろ過はしないことにした。その後も、麹やもろみの温度管理を精密に行ったり、搾り機を5℃の冷蔵庫に入れて低温で搾ったり、改良を重ねて雑味を除き、純粋なうま味を追求してきた。使う米は地元産に徐々に切り替え、現在では99%が滋賀県産だ。中でも冨田さんが気に入っているのが、古くから滋賀で栽培されてきた酒米品種「玉栄(たまさかえ)」だと言う。

「玉栄は酸が出やすい米なので、酸の少ないきれいな吟醸酒造りには向かないので敬遠する蔵が多いのですが、僕が造りたいのは貴族が好むような華やかな酒ではありません。かといって、雑兵のような荒々しい酒でもない。七本鎗という名前にふさわしい、茶道や詩歌、踊りなどの素養もある大名クラスの武将を思わせる酒を目指しています。味として考えたのは、うま味はたっぷりあって、背骨に酸があるけれど、ゴツゴツした酒ではなく、身体にじんわりとなじんで、すっと潔く切れる酒。玉栄は、うちの仕込み水とも相性が良く、年々、僕が思う酒に近付いていると思います」

仕込み蔵は改装を繰り返してきたが、2015年、江戸末期の蔵に新しい蔵を増設。

1744年築の酒蔵。入り口はショップで、窓には七本鎗のステンドグラスがはめられている。

伝統産業を滋賀県から世界へ

冨田さんは今、地元の農家や陶芸家、和ろうそく作家など、伝統産業に関わる同世代の青年たちと、さまざまなイベントを企画し、北近江の魅力を伝えようと精力的に活動している。製造量は約1000石(1.8リットル換算で10万本)と規模は大きくないが、このうち約9%は、米国を中心に13カ国へ輸出している。北近江という狭いエリアから、広い世界に向けて文化の発信に力を注いでいるのだ。

「海外の飲食関係の方が、よく酒蔵に来てくださるようになりました。先日は米国から視察に来た方が、七本鎗はブルーチーズに合うと言ってくれました。鮒ずしはチーズと似た風味があるので、同じ発酵食品同士、引かれ合うのかもしれません。新しい発見でした」と話す顔は自信に満ちていた。悩み多き20代、挑戦を続けてきた30代を経て、冨田さんは、老舗蔵の15代目らしい風格を漂わせ、堂々たる蔵元になった。

米国向けの純米酒サムライボトル。通称「SAMURAIラベル」

七本鎗

写真撮影=山同 敦子

バナー写真:冨田酒造15代目蔵元の冨田さん。後ろに下がる稲は、滋賀県の酒米。

(※1) ^ アルコールを生み出す微生物。ワイン造りにはワイン酵母、日本酒造りには清酒酵母を使う。

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