ニッポンの酒

進化し続ける日本酒(19)―酒米の栽培から手掛ける栽培醸造蔵「いづみ橋」(神奈川県)―

文化

近年、原料の米作りから酒造りまでを一貫して手掛ける酒蔵が増えている。見事な田園風景が広がる場所で、純米酒だけを造る酒蔵の6代目蔵元を訪ねた。

赤トンボ(アキアカネ)舞う田んぼ

10月中旬、神奈川県海老名市にある泉橋酒造の自営田では酒米の収穫期を迎えていた。黄金色に実った稲田には、たくさんの赤トンボ(アキアカネ)が飛んでいた。赤トンボが舞う稲田は、日本人が心に思い描く秋の原景だろう。かつて日本は、みずみずしい稲穂を意味する「瑞穂の国」と呼ばれ、全国に水田が広がっていたが、この50年、国内での米の消費量の減少に加え、農家の高齢化、担い手不足による耕作放棄地の増加で、徐々に田んぼが失われてきた。一方で、地域の財産として田んぼのある風景を守ろうと力を尽くす人々がいる。

6代目蔵元の橋場友一さん。慶応大学卒業後、証券会社勤務を経て家業を継ぐ。田んぼでは泥だらけになり、酒蔵では造りの指揮を執る。酒蔵の周りには見渡す限りの田んぼが広がる

海老名市は、神奈川県のほぼ真ん中にあり、都心から50キロ圏内に位置する。首都圏有数のベッドタウンだが、海老名駅から15分ほど歩けば、見渡す限りの見事な水田が広がっている。その中心に酒蔵を構えるのが泉橋酒造。7.5ヘクタールの自営田と、農家と契約している39ヘクタールの田んぼで栽培する米は、全て泉橋酒造向けの酒米だ。その作付面積は市内の水田の15%を占め、海老名の景観保全に一役買っている。

食管法廃止で酒蔵の米栽培が可能に

「この辺は相模川がつくりだす沖積平野で、“海老名耕地”(えびなごうち)と呼ばれています。穀倉地帯で、古代から米栽培が行われていたと伝えられています。泉橋酒造の創業は江戸末期の安政4(1857)年ですが、それ以前から私の祖先は米農家でした」と話すのは、泉橋酒造6代目の橋場友一さん(50)だ。他の酒蔵と同様に、主食用米の余剰で酒を仕込み始めたのだろう。ところが橋場さんが家業に就く23年前までは、酒造りに使う米のほとんどを酒造組合を通して、兵庫県や新潟県など県外から購入するしかなかったと言う。

ワインでは、自家栽培のブドウを原料に使うのは当たり前のことだ。だが日本酒は、第2次世界大戦中の1942年に公布された食糧管理法(食管法)によって、米の生産と流通を国が管理し、酒蔵は米の栽培をすることができなかった。米は農家が作り、酒は酒蔵が造る。生産は完全に分業で、流通にも規制があった。しかし、95年に食管法が廃止され、新たに食料需給価格安定法が施行された。橋場さんが家業に就いたのは、ちょうどその年で、米の栽培と流通の規制が撤廃されたことから、酒米を栽培しようと考えた。当時は例の少ない「栽培醸造蔵」(*1)を目指したのだ。

(*1)^「栽培醸造蔵」

農業から醸造まで責任を持って行う酒蔵のことで、泉橋酒造の商標登録

酒蔵の前の田んぼで、酒米「亀の尾」を収穫しているところ

食べてうまい米と酒の米、乗り越えた大きなギャップ

翌1996年から、酒蔵の前にある自社が所有する0.5ヘクタールの田んぼで酒米の栽培を始めた。97年には近隣の農家にも声を掛けて、4家族からなる農家グループ「さがみ酒米研究会」を結成し、酒米の王様と呼ばれる「山田錦」、それと人気を二分する品種「雄町」の2種類の栽培を始めた。ところがうまく育たず、ほとんどの稲が倒れてしまった。そこに救いの手を差し伸べたのが、酒米栽培の指導者として知られる永谷正治さんだった。永谷さんは生前、全国各地の国税局鑑定官室で室長を務めた酒造りの技術者だが、酒米の研究にも情熱を傾けていた。永谷さんは、酒米の品種は飯米の品種に比べて稲の背丈が高いこと、食味のいい米と酒の原料とでは求められる質も異なることを説明し、肥料を控えて倒れにくい米作りを指導した。だが、栽培のプロとして誇りを持つ農家は、永谷さんの良い酒を造るための栽培方法に難色を示した。

『いづみ橋』のラベルには赤とんぼと幼生のヤゴの絵を採用する。左から、山田錦を使った純米吟醸『恵』、純米生原酒『夏ヤゴ』、生酛純米『黒とんぼ』、純米活性にごり『とんぼスパークリング』。右端は新しい酒米「楽風舞」を使った純米吟醸『楽風舞』

「反発もありました。でも、地元の米でいいお酒を造って、一緒に地域を盛り上げようと話したら徐々に納得してくれて、除草剤の量や田んぼの水の管理など、いろいろな無理も聞きいれてくれるようになりました。蔵元としては農家の気持ちに応えたいので、米を買い上げる価格は、通常は量で支払われるところ、上質な米には上乗せするシステムも共に作り上げていきました。今では『橋場は、俺たちをのせるのがうまい』と笑い、信頼し合えるいい関係になりました」と橋場さんは振り返える。着実に品質は向上し、農薬や化学肥料を使わない栽培にも成功した。赤トンボの群舞は、環境にやさしい米作りの証しでもある。現在「さがみ酒米研究会」のメンバーは4家族から7家族に増え、海老名市と隣り合う市の耕作放棄地を借り受けて栽培面積を増やし、見事な田園風景の維持・発展に一役買っている。

田んぼの赤トンボ

古式の製法「生酛(きもと)」造りと最新の技術の両輪で

こうして酒米の栽培が軌道に乗ったことから、「栽培醸造蔵」として磨きをかけようと、2006年から全て醸造アルコールを添加しない純米造りに切り変えた。さらに、醸造乳酸を使わず、自然界に存在する乳酸菌を取り込んで酒母(しゅぼ)を育てる古式の製法「生酛(きもと)」にも挑戦し、今では全製品の半分を、生酛仕込みが占めている。発酵する力のある質のいい米が獲れるようになったからこそ、可能となった製法だと言えよう。酒米作りから手掛けた多くの人々の情熱と苦労が結実したのである。

(左)生酛仕込みの工程の一つ、麹米(こうじまい)と米と水を擦り合わせる「酛すり」作業は、人出と手間がかかる作業。(右)季節雇用をやめ、平均年齢35歳の若い社員が米栽培や酒造りを行う。写真は麹の温度や水分を調整する「仲仕事」

今、橋場さんが目指すのは、米作りと酒造りを科学的な裏付けを伴う技術でつなぐことだ。性能の高い精米機の導入で、目的通りの正確な精米と米の水分量など精密なデータが得られるようになった。そのデータと、酒造りにおける米の吸水率や麹の出来具合とを照らし合わせ、米の栽培方法にフィードバックする作業を繰り返している。

精密にデータを設定できるコンピュータ制御の精米機

「これは酒米作りから精米、酒の仕込みまで一貫して行う私たちだからできることです。先祖から引き継がれたこの土地の環境を守り、酒として表現すること。それが栽培醸造蔵の使命だと考えています」と話す橋場さん。証券マンとしてのビジネススーツを脱ぎ捨て、作業着姿で農作業にいそしむ姿は、この日の秋空のように爽やかだった。

橋場友一さん

シリーズ最後に寄せて

これまで19回にわたって酒蔵や酒販店、飲食店など日本酒に関わる人々のルポルタージュと、知識を広げるためのコラムを連載してきた。いまSAKEは世界を熱中させ、トレンドに敏感な日本の若者たちを引きつけている。その原動力となり、日本酒を進化させてきたのは酒蔵の跡継ぎたちだ。伝統に甘んずることなく、古い技法と最新の技術を融合させ、米の栽培にも取り組みながら、自分がおいしいと信じる味を丁寧な手仕事で造り上げてきた。できた酒は地域の誇りになり、酒米の栽培を通して田んぼのある景色を守ることにつながっている。日本酒専門の飲食店酒販店の店主は、その魅力を理解し、伝えようと工夫を凝らしている。上質な材料で、魂を込めて醸した「クラフト SAKE」は、新しい感覚を有し、世界の食通やシェフ、ソムリエを魅了するようになった。以前、日本酒を飲んで口に合わなかった経験がある人も、今回のルポルタージュに出てきた酒を見かけたら試してみてほしい。日本酒は日に日に、進化し続けている。

いづみ橋

  • 泉橋酒造株式会社 〒243-0435 神奈川県海老名市下今泉5−5−1
  • 電話:046-231-1338 FAX: 046-233-1452
  • ウェブサイト:http://izumibashi.com/

写真撮影=川本 聖哉

バナー写真:稲に止まる赤トンボ。冬は幼虫として水中で過ごす。トンボの多さは環境にやさしい米作りの結果でもある。

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